母の記憶を大切に記したい…それぞれの2021年9月1日(その5)

 深夜2時過ぎ、悲鳴と大きな物音が母の部屋から聞こえた。駆けつけると母は仰向けに倒れていた。危険な状況だと感じたので救急車を呼んだ。結局、病院での検査の結果、脳内に異常はなく意識も戻ったので一緒にタクシーで家に戻った。
 私は母とは別に暮しているが、この日は前日にショートステイ先から家に送り届けた際、いつもと様子が違ったので泊まっていたのだった。
 母には聴覚障害がある。40代から難聴となり今では補聴器をつけなければほぼ聞こえない。また難病の進行で筋力が落ちつつあり日常生活を一人で行うのが難しくなっている。なのでヘルパー、看護師、OT(リハビリ)など何人もの方とともに彼女の生活は成り立っている。そこには私もいて、父が5年前に亡くなって以降は週に2〜3回、母の家に通うのが日常となった。
 上記の「障害」とは別に、母は心が疲弊しやすく何十年も精神科に通っている。その症状の背景には彼女の幼少期の記憶が関係する。この記憶については、彼女が亡くなった後にきちんと調査も踏まえて記したいと考えていて、なので今は詳しく書くことができない。書けないのは、母自身がこの記憶によって生かされ、また脅かされてもいるからだ。また、私自身も彼女の記憶を内面化しているところがあるので、このことは、ある程度時間をかけないと書くことができないし、時間をかけて大切に記したくもある。
 それでも母とのことを書くにはこの記憶のことはどうしても外せない。キーワードだけで許してもらえるなら、それは「戦争と喪失」になる。母は、私が幼少の頃からその記憶を断片的に語り続けた。だから私自身も彼女の記憶を共有している感覚がある。知らないはずの街道や電柱や花のある場面が原風景として思い浮かんでしまうほどに。
 この記憶の話は、今現在も彼女との会話に頻繁に現れる。過去を懐かしむようなときが多いが、時にはフラッシュバックする強烈な喪失体験を共有する時もある。母はいわゆる戦争体験者ではないが、戦後生まれの子どもたちが味わった不条理な状況にも直接、間接に戦争が関与しているのだなとここ数年、ある種の当事者として改めて実感するようになった。
 9月1日からは外れるが、9月3日、母はどうにも心が辛くなり本人の意思で主治医のいる病院に入院することになった。病院に急ぐ途中の中央高速で、車は渋滞にはまった。「これはオリンピックのためですか?」私は悲しみと怒りが混ざり合う気持ちで運転手さんにたずねた。「そうですね・・・」
 どうして「大きな」主体のメンツや意地に、一人ひとりの人生がふりまわされなければいけないのだろう。

花写真 - コピー.JPG